藤嶺学園藤沢中・高等学校 blog archive

校長ブログ(7/24)

藤嶺広報 2021-07-24

7月24日「河童忌」・校長閑話

 

 「河童忌」とは、芥川龍之介の忌日のことです。1927年(昭和2年)、7月24日、35歳の若さで逝去しました。死因は致死量の睡眠薬を飲んでの服毒自殺でした。

「河童忌」の名称は、芥川が生前に好んで河童の絵をよく描き、亡くなる年に残した短編小説「河童」によるもといわれています。そのほかに、「澄江堂忌」「餓鬼忌」と呼ばれることもあります。

 1915年(大正4年)東京帝国大学在学中に「羅生門」を「帝国文学」に発表し、翌年の1916年(大正5年)に第四次『新思潮』創刊号には「鼻」を発表しました。この作品は夏目漱石から賞賛され、その才能が認められ、やがて大正文壇の寵児へと次々に作品が発表されることになります。1915年は、わが藤嶺藤沢が設立認可を受けた年です。したがって「羅生門」は、その発表から106年が過ぎ、いまなお、高校の国語の教科書には、必ずといっていいほど採択される文学作品です。

 芥川が亡くなって8年後、親友であった菊池寛によって、芥川の名を冠した新人文学賞が設立されることになります。それが「芥川龍之介賞」です。通称では「芥川賞」と呼ばれ、「直木賞」とともに新人作家の登竜門となっています。

 芥川龍之介は辞世の句を託して亡くなりました。前書きには「自嘲」とあります。「自嘲」とは、自分で自分を軽蔑し、あざけることです。その句とは、

 

水洟や鼻の先だけ暮れ残る   龍之介

 

「水洟」とは、「はなみす」のことです。7月に冬の季語の「水洟」をもちいて、辞世の句とすることは、多くの俳句や句集を残している芥川にしては、おかしな行動といえます。この句は、『澄江堂句集』77句中の17句目にあたります。そして、成立年代は、大正の10年頃ではないかといわれています。

 死を意識した芥川がこの句を辞世の句としたのには、それなりの理由があり、いろいろな評者の研究も発表されています。冬の夕暮れはあっという間に辺りを闇に包んでいきます。芥川の困憊(こんぱい)した精神と肉体は徐々に闇につつまれていきます。そして、なぜか、鼻水の鼻だけが暮れ残っています。この「鼻」こそが、夏目漱石に賞賛された「鼻」という作品と考えると、すさんでしまった芥川の心が唯一癒されている瞬間にも感じられます。