時宗総本山遊行寺では、毎年9月15日に踊り念仏の一つである「薄念仏会(すすきねんぶつえ)」という法会が営まれます。この法会では、遊行上人と6人の僧侶が薄(ススキ)を囲んでフシ(抑揚)のついた念仏を称えます。「ススキ」は、本堂内陣の前机の前に置かれた大花瓶に、松・青竹とともに生けられ、その青竹の高い位置に遊行四十二代尊任上人の「笹名号(ささみょうごう)」が掛けられます。また、内陣と外陣の境目には18個の白張提灯が吊るされます。藤沢市の伝承によると、法会の参詣者たちは18個の白張提灯を薄念仏が終了したときに競って取り合い、提灯を戴いて持ち帰り田や畑に吊るしておくと虫が付かないと信じられていたとのことです。
さて、この薄念仏の起源については諸説ありますが、国宝『一遍聖絵』に描かれている「奥州江刺郡」の場面が有力です。『一遍聖絵』第五巻第三段によると、一遍上人は弘安三年(1280)に信州善光寺から奥州に向かい、江刺(現岩手県北上市)を訪ねます。そこには祖父である河野通信公の墳墓があり、それを囲んで僧尼が座して念仏している姿があります。その塚の上部には薄と思われる草が2~3株ほど描かれており、詞書には「墳墓をめくりて転経念仏の功をつみたまふ」と書かれていて、このとき行われていた踊り念仏を時宗教団では「薄念仏」と称しているのです。
一遍上人の祖父「河野通信公」は、伊予国(愛媛県)の名族の出で、鎌倉時代の名高い武将であり、源平最後の合戦である「壇ノ浦の戦」では水軍を率いて源義経に加わり大活躍をしました。そして、源頼朝の妻である政子の妹を妻とし、頼朝の側で仕えました。しかし、後鳥羽上皇が幕府から朝廷に政権を取り戻そうとして戦いを起こした「承久の乱」(1221年)で、通信公は上皇側につき、戦に破れて江刺郡に流されてしまいました。そして、2年間ほど江刺郡極楽寺に庵をむすび、世捨人となって余生を送ったのでした。「聖塚(河野通信公墳墓)」は、現在「岩手県指定史跡」となっており、『聖絵』そのままの面影が今でも残っています。
参考までに、『聖絵』のその段の最後は「身をすつるすつる心をすてつれはおもひなき世にすみそめの袖」という一遍上人の歌で締められています。その歌意は「身を捨てるという、その捨てる心さえ捨ててしまいましたので、もはやこの世に何も思いわずらうことのない墨染の姿(黒い衣を着た姿)なのです。」となります。まさに「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた一遍上人らしい歌と言えるでしょう。
library_books 新着情報 カテゴリの記事