私は鎌倉市西御門(にしみかど)という住居表示の地域に住んでいます。町内には「源頼朝公の墓」があり、このあたりの地名は、源頼朝公と関わりのある地名がいくつかあります。
私が住む西御門という地名の由来は、鎌倉幕府の大倉御所(大蔵幕府)の西門があったことによります。正確には西門前を南北に通ずる西御門大路の北方の地域になります。『吾妻鏡』によると文治2年(1186年)正月五日に「美濃藤次安平西御門家」と記されているのが初見とのことです。
西御門の東側に隣接する地域が「二階堂」です。地名の由来は、源頼朝公が奥州合戦後の鎌倉凱旋の際、中尊寺大長寿院の二階堂を模して、永福寺という二階堂(=二階建ての建物。当時、二階建ての建物はかなり珍しく、いわば「非常に立派な建物」を意味した。)を建立したことに由来するそうです。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し落慶供養が行われましたが、応永12年(1405年)に焼失し、以後は再建されることはありませんでした。現在は「史跡永福寺跡」として整備され、往時の「浄土式庭園」が偲ばれます。
西御門の南側に隣接している地域が「雪ノ下」です。地名の由来は、『吾妻鏡』によると、建久2年(1191年)2月17日に降雪が5寸になった雪見のため、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝公が佐々木盛綱らに山辺の雪を長櫃(ながびつ)に入れて夏に備えて貯蔵させたこととされます。地名は『吾妻鏡』の建保元年(1213年)正月四日が初見とされます。
現在の西御門と二階堂、雪ノ下を比較してみると以下のようになります。
面積 世帯数 人口
二階堂 1.66k㎡ 1,158世帯 2,713人
雪ノ下 0.72k㎡ 1,260世帯 2,800人
西御門 0.33k㎡ 402世帯 1,016人
さて、その雪ノ下で先日殺人事件が起きたのです。バス通りから雪ノ下を通って私が住む西御門に通じる道はただ1本だけ……その道沿いの家で、78歳の男性が同居していた甥に殺されたという、何とも痛ましい事件でした。
少々古い統計(平成22年版犯罪白書特別調査)ですが、殺人の被疑者と被害者との関係 は、約30%が「親族」となっています。関係が濃いからこそ「憤まん・激情」の感情を抑えられずに「殺人」という最悪の結果となってしまうことがあるのでしょう。仏教の戒律(仏教徒が守るべき生活規律)の第一は「殺生戒(せっしょうかい)」=「生き物を殺すこと、特に人を殺すことを戒める戒律」です。この「戒」が守られて、殺人事件という痛ましい出来事が少しでも減り、世に安穏が常住不断なることを願うばかりです。
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