藤嶺学園藤沢中・高等学校 blog archive

高校教頭ブログ(10/6)

藤嶺広報 2022-10-06

無常の風

 去る10月1日午前7時40分にアントニオ猪木(猪木寛至)氏が亡くなりました。伝えられていた病状からすると、この瞬間が訪れるのは時間の問題であったのかもしれません。実は、私としては猪木氏の死を「避けて通ろう」としましたが、やはり若い頃の私に大いに影響を与えた存在に対して失礼と思いましたので、この場をお借りして私の猪木物語を語らせて頂きます。
 質問です。次の書名中の〇には何のひらがなが入るでしょう?……『燃え〇闘魂 アントニオ猪木自伝』(東京スポーツ新聞社)……猪木を経験した者はこの質問に間違えることはありません。これが、猪木を語る上での大前提と思うのです。 
 私の高校生時代(40年以上前⁈)「尊敬する人物は?」と問われれば、迷いなく「猪木寛至」と答えていました。そして、高校時代に自分を好きになれず悶々とする中、「猪木のようになりたい」と半分本気で思っていました。(「半分」と言わなければならないのは、中高の先輩に「本気で猪木のごとく生きていた人」がいたからです。)
 当時の日本のプロレス界は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が人気を二分していましたが、「馬場ファン」はいても「猪木ファン」はいませんでした。その代わり、「猪木信者」あるいは「猪木に傾倒する者たち」がいたのです。すなわち、猪木の存在は、多くの人々にとって「宗教」のようなものだったと言っていいでしょう。彼らは、自分の夢と理想と未来を猪木という存在に投影し、また託してもいたのです。
 猪木は横浜市立寺尾中学校2年生のときに、祖父らとともにブラジルに移民として移住するために横浜港を発つのですが、そのお祖父さんが航海の途中で亡くなり,その亡骸を海に流すという大変悲しい経験をするのです。ブラジルに着いてからは、あてがわれた荒野を耕し、コーヒーの栽培をするのですが、貧しい生活は続いたそうです。日本への帰還については割愛しますが、猪木という人の原点は「ブラジル」にあるのです。
 プロレスラーとして一流になりつつあったとき、あの「猪木vsアリ」を実現させ、その後、異種格闘技戦を重ね、その集大成であり、格闘家猪木全盛期の闘いが「猪木vsウィリー・ウィリアムス(1980年2月)」でした。私は、今でも猪木の異種格闘技戦の中で「最も危険な戦い」であったと確信しています。また、1976年12月のパキスタン最大の都市カラチでの「パキスタンの英雄アクラム・ペールワン戦」と1978年11月の欧州遠征中の「シュツットガルトの惨劇(ローラン(ド)・ボック戦)」は、今も語り継がれる激しい闘いでありました。
 過激な闘いを続ける猪木のもとには、次第に「真の強さ」を求める者たちが集まっていきました。藤原喜明、佐山聡、前田日明、高田延彦、船木誠勝……後の「UWF戦士」たちです。猪木の生き様を目の当たりにした彼らは、UWF、新生UWFと歩みを進め、その後、佐山のシューティング、前田のリングス、髙田のUWFインター、船木のパンクラスに枝分かれしていきますが、その先にこそ「総合格闘技」という新たなジャンルが花開いたのです。(UFCについてはここでは触れません。)
 猪木が求める道に共鳴した2人=作家村松友視氏と『週刊ファイト』編集長井上義啓氏も忘れてはなりません。村松氏は『私プロレスの味方です』『当然プロレスの味方です』、さらに『ファイター 評伝アントニオ猪木』を著し、猪木信者の「拠り所」となりました。また、井上氏は「猪木傾倒者」の代表格であり、猪木信者たちは「駅売り」の『週刊ファイト』を毎週むさぼるように読んだのです。
 以上が私の猪木のすべてです。その後の猪木については、最期まで「プロレス的生き方」をしていたのであると理解していますが、私の高校時代の猪木の存在があまりに大きすぎたため、猪木の後半生には気持ち的に乗り切れない自分がいたのです。
 無常の風は時を選ばず……猪木寛至氏の往生安楽を心からお祈り申し上げます。